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だれも知らないまちへふたりで

崇高なものにあこがれるという<快>

こんばんは。

かなり前にお前たちが何を考えているのかわからないという旨の記事を書きましたが、その答えがわかったような気がします。
少し前に読んだ本に僕が考えていなかったことが書いてありました。

より崇高なものにあこがれるということは、それ自体が快になるのだ、ということです。
それも、自分の内であこがれるのではなく、それを他の人に見せることが大事らしいです。”崇高なものにあこがれている自分”を見られることになり、さらに他者を鏡にして自分の美しさを感じ取るとかなんとか。

これを読んで、たしかにと思いました。
本当にそれに憧れていなくてもいい。自分がその美しいもの、崇高なものにあこがれているのだということを誰かが見ていればいい、という程度の気持ちなのだという理解なら十分できます。
しかしこれが快につながる回路はあまりわかりません。そうなのだろうというのは経験から考えてもわかりますが。憧れるという行為が他者を通すことで自分の快になるというのは、おもしろいですね。


今日は本当に眠いのでこの辺で。
もうすこし考えが深まればまた続きを書くかもしれません。書かない可能性の方が高いです。では。