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だれも知らないまちへふたりで

丘の上の館 #4

≪丘の上の館を訪れるのはこれで三度目だった。最初に館を見つけた瞬間、私はその美しさに心を奪われた。一度目の訪問では、不動産屋に人の気配はなく、店主に会うことさえできなかった。二度目は店主の島原が姿を現したものの、私が差し出した名刺に目をやることすらなく、冷たく追い返された。


 ≪それでも私は諦めることができなかった。あの丘の上の館が持つ存在感、赤いレンガ造りの壁、東側の壁に刻まれた謎めいた言葉。それらが頭から離れず、日に日に館への執着は強まるばかりだった。≫

 

「三度目の正直だ」


 ≪再び島原不動産を訪れ、重いガラス戸を押し開ける。控えめな鈴の音と共に、島原がまた姿を現した。


「またあなたですか」


 彼の表情は前回よりもいっそう厳しく、警戒の色が濃かった。≫


「あの館を譲っていただけませんか。誰も住んでいないのでしょう?」

「あれは売り物ではありません」


≪島原の言葉には何かを隠しているような響きがあった。その隠された秘密こそが、私の作家としての好奇心をより掻き立てる。≫


「あの館には物語があると思うのです。私に書かせてください」


≪島原はため息をひとつ吐き、ゆっくりと首を横に振った。≫

 

「申し訳ありませんが、私にはあなたにお譲りする理由もありません。お引き取りを」

 

≪島原の表情には明らかな拒絶の色が浮かん?でいたが、私の中の熱意はますます強くなった。

ここで引き下がるわけにはいかない。この館にはまだ語られていない物語が眠っている。それを掘り起こすのは、私であるのだ。≫

2022年最初の投稿

ここ1,2年でかなり衰えを感じるようになった。

なにかしたわけでもないのに体がだるかったり、なんとなく頭がぼーっとしたり、肩や目が基本的に凝っている。

人生100年で考えたらまだまだ折り返してもいないような年齢なのに、元気な日の割合がどんどん下がっていっている気がする。

もしかしたら本当は人間が生きていいのって50歳ぐらいまでで、あとは特に意味がないとかあるんじゃないか?

 

若いときには「何を当たり前のことを」と聞き流していたようなセリフが、今になって心に沁みる瞬間がある。

若ければ、雨の中出かけられるし、きつい日差しの中グラウンドでサッカーができる。部活帰りにロッテリアで終電まで話すことだってできるし、飲み会のあと朝までカラオケだって行ける。朝まで飲んだあとそのまま働けるし、二日酔いなんて知らない。

普通に暮らしていれば体重は増えないし、何の前触れもなく体調を崩すこともない。

フィリピンの現地の人が乗るようなジプニーに当たり前に乗れる。

元気があれば何でもできる。

今は、元気がないと温泉にも行けないし、飲み会の前にはヘパリーゼが必須だし、サッカーどころかスポッチャで筋肉痛だ。

普通に暮らしてて勝手に太るし。

履歴書も書けないし、住所変更もできないし、メールやラインの返信もできないし、片付けもできないし、保険の支払いもできないし。

 

でも生きていける。元気がなくて何にもできない日も過ぎ去っていく。

まるで、遠く離れた銀河のどこかに俺と全く同じ人間がいて、その人間と俺は同じふるまいをするようになっていて、この俺たちを観測する存在が、俺たちを観測している限り日々が続いていくみたいだ。

これを量子のもつれというらしい。

人と比べるなは無理

人生に、

・全部がうまくいくとき

・何もうまくいかないとき

・どっちでもない時

があるとして、その比率が大体

 1 : 4 : 5

ぐらいな気がする。

これはうまくいってる時に考えると違う比率になっているかもしれないです。

でも人生って大体、どっちでもない時が半分だなって思います。

 

顔がいいやつとか金を持ってるやつは、この何もうまくいかない時や、

どっちでもない時を無理やり「うまくいっている時」に持っていく力があって、

それゆえの自己肯定感の高さから、また何かをうまくできるようになる、

みたいな良いサイクルが回ってる、はず。

これは悪口だし偏見なんですが、

胸焼けしそうな甘ったるい文、自己意識を全面に押し出した洒落臭い文、

こういうのをかける人間はもれなく誰かしらから全肯定されて生きています。

 

でも逆もそうなんじゃないかなと思ってて、

自己肯定感が異常に低い人間も、

いろんなことを「うまくいってない」に読み替える力がある。

ここは悪口じゃないことを前提に読んでほしいんですが、

「自分に自信がない」ということをいろんな言い方で言える、

説明できる、

インターネットで発表できるぐらいの度胸があるのは、

中々の自己理解をしていないと無理なんじゃないかと、僕は感じています。

これを読んでくれているあなたがどうかは分かりませんが、

もし自信のなさをある程度説明してきたのなら、

自分のことをわかっているという自信は持ってもいいんじゃないでしょうか。

世の中には自分のことを説明できない人が多分いっぱいいるのですごいことだと思います。

 

僕みたいな中途半端な人間は、

自分にできることが何となくわかっているけど、それをもっとうまくできる人がいるのも知っていて、

でもそのまま負けるのも癪だから後にも引きにくいが、

前にも進みにくい(負けに直面したくないから)という硬直状態になってしまいます。

これも一種の自己理解なのかもしれませんね。

皆さんはどれに当てはまりますか。

 

まあみんながどれに当てはまるとかはどうでもいいんですが、

最近世の中にはいろんな人がいるということをみんながわかってきて、

炎上したり称賛されたりしていると思います。

 

名前がついたコンプレックスを持っている人がいて、

このコンプレックスを発表し、方々からの共感や同意を獲得するのを見かけます。

それ自体は良いことなのでどんどん発表してほしいんですが、

問題は受け止める方で、

いろんな繊細さを全部肯定してしまうと、絶対どこかで矛盾してしまう気がします。

肯定している人たちに悪気はないけれど、

かつて「男が働き女が家にいる」という価値観を肯定していた人たちも悪気はなかったはずです。

新しくて心地良さそうな価値観やコミュニティに無邪気に飛びついたり、「とにかく肯定する」態度は、何とはいえないけど何かしらの問題を抱えていそうな気がしています。

 

すみません、考えてみればあなたたちが矛盾しているかどうかも別にどうでも良いですね。

僕が取れるスタンスは

「どっちでもない」みたいな、

ただそれをあるものとして見るだけというものかもしれないです。

 

何が言いたいかっていうと、

「人と比べるな」は無理ってことです。