film.

だれも知らないまちへふたりで

正しい恋愛

「言いたいことがあるんだよ」
 と、彼女が言った瞬間、僕は理解して、涙をぐっとこらえた。
 今の今まで読んでいた小説の内容が途端に入ってこなくなり、鼓動が上がるのを感じる。隣の席では難しい顔をした女性が数字がたくさん書かれたエクセルとにらめっこしていて、その反対の隣の席には、音楽を聴きながらもう氷が全部解けてしまったカフェラテを飲んでいる学生がいる。
「どうしたの?」
 目を上げるが、向かいに座っている彼女と合わせることはできず、何となく右上の方を見る。カウンターでスカした店員がコーヒーをドリップしているのが見える。湯気が気持ちよさそうにもくもくとしている。傾きかけた日がガラスのポットに刺さって反射している。
 彼女は言い出せないようで、口を結んで泣きそうな顔をしているのが、何となく見える。僕はこんな時なのに、その彼女の顔に色気を感じてしまう。
 そして喉の奥から絞り出すように「もう……」と言ったきり、うう、と涙を流している。難しい顔をしていた女性が気が付いたようで、驚いた顔でちらっと僕たちを見るものの、察した後はまた難しい顔をしてSurfaceを叩いている。
 僕は本をたたんで「出ようか」と声をかける。

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 カフェを出た前にある広い公園のベンチに座って、夕日を眺めながら彼女が言い出すのを待っている。頻繁にランニング中の人が前を通っていくが、足を止めるわけはない。下校中の小学生、部活終わりの中高生、ロングブラックを持った男子大学生、クロスバイクで通り過ぎていく会社員、汗をダラダラかいてもジャケットを脱がない中年のサラリーマン。
 広場でサッカーをしている親子、公園の外の国道を走る車の音、飛び始めるコウモリ、生暖かい風。
 彼女はやっと決心がついたのか、「あのね、私、あなたのことが嫌いになったわけじゃないんだけど……」と、ベタなセリフを発した。
「でも、別れましょう」
 何が、でも、なんだ。勝手に進めやがって。
「わかった」
 僕は努めていつも通りの声色で了承する。これを言い出すまでにかなりの時間があったから、驚きなんてなかったし、十分に構えていた。それでも耐え切れずにあふれてくるもの。
 別れを伝えた彼女は糸が切れたように泣き出し、「でも、でも……」と誰に言い訳しているのかわからない。もう何も言わないでほしい。彼女が泣き止むまでしばらく待って、「帰るよね」と声をかける。今日は待ってばかりだな。
「うん、うん」と彼女。「これ、返すよ」
 彼女は最初から準備していたように僕が貸していた本を差し出す。この1日は何だったんだ。

 そうして僕は最寄り駅まで彼女を送って、バラバラの電車に乗って帰る。
 家に着くまではなぜだか体が軽くなったみたいで、イヤホンもせずに音楽を聴いて小躍りをしながら帰ったのだけど、僕の部屋に残っているたくさんのものを見て、すでに半分忘れてしまっていた声や手の感覚が戻ってきて、やっと僕も声を上げて泣く。
 いつかの夜のことだった。

安心な僕らは風呂で寝ようぜ

 今日、なんとなく風呂を沸かして、何をするでもなくぼーっと浸かっているとまどろんできて、気が付いたらしばらく眠ってしまっていた。
 目を覚ますと首から下が溶けかかっていた。
 俺はこのまま死んでしまうのだなと思ってあきらめてもう一度目を閉じたのだが、そのときに部屋のドアがガチャリと開く音が聞こえる。
「ただいまー」と陽気な声。「あ、お風呂入ってるのかな」
 スーパーのビニール袋がすれる音と足音。暑くて風呂のドアを開けっぱなしにして入浴していた俺と、ビジネスカジュアルの彼女の目が合う。
「……何それ?」
 溶けかかっている俺を見て、彼女は目を丸くする。
「なんか風呂で寝てて、起きたらこうなってた」
 声は出るらしい。体はもう全く動かないが。
 彼女はしばらく無言で口をパクパクさせていたが、そういえば、と思い出す。
「あんたこの前も溶けかかってたね」
 風呂でこんなことになったのは初めてだけど。
「ほら、代々木公園で」
「あー、あれか」
 確かに溶けかかったことはあった。でもあれは暑くてしかたなくて、敷いたシートに寝ころんだ俺が溶けてなくなってしまいそうだという比喩であって、こんな風に本当に溶けそうになってしかも身動きも取れないなんてことではない。

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「あれの延長だと思えばいいんじゃないの」
 と、彼女は勝手に納得してこの問題は解決したとばかりに風呂を後にした。
「どうしようもないんだけど……」と俺は小さな声で助けを求めるが、彼女は冷蔵庫に買ってきた食材を戻しているようだった。
 さてどうしたものかと思っているうちに、首から上も溶けかかってきた。
「おーい、助けてくれー」という叫びは声にならず、少し遠くで何かを痛めている音だけが聞こえる。
 そしてぶくぶくと頭の先まで沈んでいき、水上を目指すも何の動きも取れず、息が切れて気を失う。

 鼻にお湯が入りむせて、ハッと目が覚める。
 みそ汁の匂いと、揚げ物の音。
 安心な僕らは風呂で寝ようぜ。

踊り場

長年こうやっていろいろ書いている文章でさえまだまともにこなせていないというのに、俺は楽器がやりたいだの絵を描けるようになりたいだの、果ては事業を起こし遠くにいる誰かを救いたいなどとやりもしないことばかり想像し、口に出し、手と足はどこにも出さない。

タイにいた浮浪者や、フィリピンで出会ったストリートチルドレンや、マレーシアで見たツインタワーの隣の路肩で物を売るおじいさんや、彼らの未来を現実のものとして想像したことはあるのか。
俺は彼らを見てこういう人たちのために生きようと、当時は思ったはずなのに、そこに向けて進んだのはほんのわずかな距離だけという実感があり、どうしようもない。
そもそも暮らしさえままならず、給料日から給料日までを何とかやり過ごしているだけなのだ。
でも仕事をし始めて学んだのが、世の中の9割9分の人は外に対して強い志向がない生活をしているということ。それ自体は何も悪くなくて、個人の幸せをちゃんととらないと、全体の幸せにはならない。儲けるだけのために会社をやっている人だってたくさんいる。
それでもなお、こらえきれないものがある人たちが何かを模索して、生み出して、そういうことを何百回何千回繰り返して初めて、世界を一つバージョンアップできる。
物々交換から紙幣、馬車から自動車、手紙からインターネット、現実から仮想、それらは全部怪物たちが苦しんで生み出したものだということを、自分のものとして思えるようになったというのも、一つ学びかもしれない。
一方で、実はそんなことないんじゃないかと思ってる自分もいるけど、それはそれとしてどこかのタイミングで引っ張り出してくることにする。

世界を救うのも絵を描くのもブログを書くのも、何にもできていない俺には何を言ってもウソくさくて、エゴでしかない。エゴで誰かが救えるなら大したものだが、発表して終わりのことが多いので、どっちかと言えば自慰みたいなものだ。
本当に何かをしたいと思っているならこの文章だって英語を併記しなきゃいけない。

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「本当にそう思っているなら」と自問することで、俺は俺の中ですべてを終わらせてしまう。
恥ずかしくなって上に書いたようなことも人前ではほとんど話さないし、どこにも書いたりしない。誰にも読まれないところにだけ吐き出すようにしていた。
でも思ってしまうことは仕方ないのだ。
行動になろうがならなかろうが、俺の思考は本質的に俺にしかできないものだということを認め、それを恥として押し込めてしまわず、オープンにすること。
万が一もない確率だけど、これで誰かが救われるかもしれないし。

こういう風に、俺はもう長らく「踊り場」にいるような気がしている。
よく言われる年収とかキャリアの、という文脈ではなく、俺がこれ以上俺としてアップデートされることがないんじゃないかという意味。思考の踊り場?
抜ければ”成長”になる、みたいなイメージでもないから、何といえばいいんだろう。
とはいえこんな閉塞感にいつまでも悩まされていても仕方ないから、目の前のことを一つ一つやっていくしかない。気持ちと思考と体を全部分けて上から糸を引いて動かす感じで。
そうやっていつまでもダンスしてるかもしれないし、いつのまにか2階に飛んでるかもしれない。

書いてみたけどあんまり読まないでほしいな。では。