film.

だれも知らないまちへふたりで

パスポート

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 当機はまもなく着陸態勢に入ります、というアナウンスで僕は目を覚ます。窓の外を見ると眼下に薄っすらと街明かりが見えていて、夜になっていることに気がつく。
 今一度安全ベルトをお確かめください。無機質な客室乗務員の声、続いて、英語。
 若干の尿意を感じながら、もう着陸後までトイレに行くことはできないのでなるべく考えないようにする。一口分余っていたペットボトルの水を飲み干す。LCCにはもう何度も乗ったけれど、乗れて6,7時間で、それ以上乗ると息苦しくておかしくなってしまうかもしれない。
 今度もっと遠くへ行くときは、少しお金を出してちゃんと席幅がある飛行機に乗ろうと思う。

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足音はBGM

夏は暑いし、セミはうるさいし、俺の部屋のエアコンもずっとうーーーーーと異音を流していて、今年の夏は随分落ち着きがない。
仕事もなにやらどたばたが続いていて、それなのにマネージャーはいつも元気そうで、機嫌が良い人や、ちゃんと頭の良い人の下で働きながら無茶ぶりされながらやるというのはそれなりに楽しくもあるのだが、俺は早くこの状況から抜け出したくてもがいてもいる。

太陽活動は極小期に入っているらしいが、黒点の数は予測された平均を大幅に上回っている。突然太陽の活動が止まって、地球の自転がぴたっと止んで、星たちがしゅっと1点に収束して、宇宙があっという間に終わってしまう。

渋谷や新宿はあまりにも人が多くて、歩いているだけで心臓がぎゅっとなってつぶれそうになるときがある。
東京に来て2年が経って、そういうことにずっと慣れないままだったが、最近はイヤホンをぐっと押し込んで、街全体をミュージックビデオにしてしまえば乗り切れることがわかった。乗り切れるどころか、ウキウキで人を交わしたり、たまに駆け足になったりとかなり上機嫌に移動できるのだった。

夏は飲み会が多い。
飲み会は別に嫌いではないし楽しいのだけど、飲み会に行くとエンジンがかかりっぱなしで騒いでいるので、解散した後の電車で急に冷えてしまう俺がいて、そのときの俺はかつての嫌の記憶を持って迫ってきて、飲み会でみんなを楽しませないとまたああいうことになるぞと常に俺を脅すのだった。誰も助けてはくれない、俺はなんでもできる。人々の足音はBGM。

ガス代の支払い用紙がなぜかいつも2か月分たまっていて、2枚テーブルにあるのを見てやっと古い1枚を支払いに行く。
満足して、また2枚目が届くまで俺は新しい1枚を放置する。何もできないようで、ギリギリで何かができる人間。世間一般で言われている普通の人って、もしかしてこのことを指すのかもしれないな。

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たまには行ったことのない街に出てみるかと寝る前に考えて、そして眠りにつく。
朝からちゃんと起きられて、洗濯して、軽く掃除機をかけて、外は見るだけで汗が出るようなお天気で、知らない街に出かけることをやめてしまう。
ふらっと最寄り駅のカフェに入って、クソ暑い中クソ固いイスに座って、クソアツイドリップコーヒーを注文する。本日の豆はこちらですと差し出されたバインダーには、その様子すらわからない国の名前が並ぶ。遠くに実るコーヒーチェリーが俺の夏に消費されていく。
赤みがかった黒の液体を一口飲んで、持ってきた本を開けるものの、イスが固くて落ち着かない。早々に本を閉じて、店内をぼーっと眺める。常連そうなオシャレな男性がこれまたおしゃれそうな、よくわからない髪型をした男性店員と話し込んでいる。
カウンターの中にはあと一人何をしているのかよくわからないけど何かをしている女性店員。

一人でいると誰とも話さないまま一日が終わることが多く、誰かに聞いてほしくてツイートの数が多くなる。
別に部屋でご飯食べながらひとり言でも構わないけど、どうせなら誰かに届いた方がうれしいに決まっている。

このままずっと夏が続いてみんな溶けちゃったらいいのにね。

正しい恋愛

「言いたいことがあるんだよ」
 と、彼女が言った瞬間、僕は理解して、涙をぐっとこらえた。
 今の今まで読んでいた小説の内容が途端に入ってこなくなり、鼓動が上がるのを感じる。隣の席では難しい顔をした女性が数字がたくさん書かれたエクセルとにらめっこしていて、その反対の隣の席には、音楽を聴きながらもう氷が全部解けてしまったカフェラテを飲んでいる学生がいる。
「どうしたの?」
 目を上げるが、向かいに座っている彼女と合わせることはできず、何となく右上の方を見る。カウンターでスカした店員がコーヒーをドリップしているのが見える。湯気が気持ちよさそうにもくもくとしている。傾きかけた日がガラスのポットに刺さって反射している。
 彼女は言い出せないようで、口を結んで泣きそうな顔をしているのが、何となく見える。僕はこんな時なのに、その彼女の顔に色気を感じてしまう。
 そして喉の奥から絞り出すように「もう……」と言ったきり、うう、と涙を流している。難しい顔をしていた女性が気が付いたようで、驚いた顔でちらっと僕たちを見るものの、察した後はまた難しい顔をしてSurfaceを叩いている。
 僕は本をたたんで「出ようか」と声をかける。

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 カフェを出た前にある広い公園のベンチに座って、夕日を眺めながら彼女が言い出すのを待っている。頻繁にランニング中の人が前を通っていくが、足を止めるわけはない。下校中の小学生、部活終わりの中高生、ロングブラックを持った男子大学生、クロスバイクで通り過ぎていく会社員、汗をダラダラかいてもジャケットを脱がない中年のサラリーマン。
 広場でサッカーをしている親子、公園の外の国道を走る車の音、飛び始めるコウモリ、生暖かい風。
 彼女はやっと決心がついたのか、「あのね、私、あなたのことが嫌いになったわけじゃないんだけど……」と、ベタなセリフを発した。
「でも、別れましょう」
 何が、でも、なんだ。勝手に進めやがって。
「わかった」
 僕は努めていつも通りの声色で了承する。これを言い出すまでにかなりの時間があったから、驚きなんてなかったし、十分に構えていた。それでも耐え切れずにあふれてくるもの。
 別れを伝えた彼女は糸が切れたように泣き出し、「でも、でも……」と誰に言い訳しているのかわからない。もう何も言わないでほしい。彼女が泣き止むまでしばらく待って、「帰るよね」と声をかける。今日は待ってばかりだな。
「うん、うん」と彼女。「これ、返すよ」
 彼女は最初から準備していたように僕が貸していた本を差し出す。この1日は何だったんだ。

 そうして僕は最寄り駅まで彼女を送って、バラバラの電車に乗って帰る。
 家に着くまではなぜだか体が軽くなったみたいで、イヤホンもせずに音楽を聴いて小躍りをしながら帰ったのだけど、僕の部屋に残っているたくさんのものを見て、すでに半分忘れてしまっていた声や手の感覚が戻ってきて、やっと僕も声を上げて泣く。
 いつかの夜のことだった。