film.

だれも知らないまちへふたりで

夜を走る

・夜を走る

 なんてことない平日の最終電車に乗って、明日の仕事について思いをはせながら、SNSに目を滑らせている。耳にはイヤホンを差し込んで、流行りのバンドを聴いていて、完全に外の世界との接続を断っている。池袋から新宿までを貫いて、高円寺、荻久保。体が覚えている地下鉄の速度、耳に残るアナウンス。もう何百回も往復したけれど、東京の地図でどこを走っているのかは全く分からない。
 新大塚でちらほらと人が乗ってきて、僕の正面に人が座ったのを感じる。浅く座っていた僕は人が通れるように深く座りなおして、ふとスマートフォンから顔を上げると、正面の男は僕の頭の上を見ていて、何やら口を動かしている。イヤホンをつけているので何を言っているのかはわからないが、誰に話しかけてるわけでもないので、独り言のようだった。
 最終電車には常にこういう謎の言動をする乗客が一定数いる。他の乗客もいつものことのように受け流している。扉が閉まったあとは少なくとも次の駅までの数分間は運命共同体なのだ。何も起きずに終わるように、全員が協力している。
 何事もなく茗荷谷を過ぎ、地下鉄が地上に出たとき、特に何があったわけでもないが気になって正面の男を見ると、まだ何かつぶやいているようだった。
 ただの気まぐれで、あるいは判断力の低下で、それとも好奇心で、イヤホンを外して彼の言葉を聞き取ってみた。日本語ではなかった。

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「Don't believe the hype
 やけにきれいな発音でそう言っていた。hype? と思い、調べてみると、どうやら誇大広告という意味の単語らしい。ついでに彼が言っている一文と全く同じタイトルの曲が検索結果にも表示されたが、どうやら彼はその曲とは関係なく、つり革広告を見てそう呟いているらしい。
 不動産、AGA、脱毛、テーマパーク、過払い請求……。朝も夜も変わらず狭い車内の至る所を埋め尽くしている。
 そのことに気づいたとたん、いつもの車内の重さが一変した。
 目をどこに向けても広告、または人の顔。車内に目線の逃げ場はなく、スマートフォンで何とか、選べる情報を手に入れている。何も気にしたことなどなかったはずが、どの広告に目を向けても確かに憶えているという感覚。
 異常だった。毎日これに乗っているのか、僕は。広告だけじゃない。電車の色や、どこで車輪音が大きくなるかや、どの駅でどれぐらいの混雑度になるのか、全部憶えていないのに憶えているのだ。
 ここにいるほとんどの乗客とその記憶を共有している。地下鉄が地下に潜り始めると同時に、僕はめまいを覚えた。