もう少し考えて行動しろ
人生には幸福でも不幸でもない時間が圧倒的に多い。
学生が授業を受けている間の何も考えてないときや、社会人になってルーチンワークをこなしているときとか、無の時間が日常にはたくさんある。
でも世の中にはいつもつらいこと言ってる人もいるし一生ポジティブな人間もいる。
それってその人の性格なんだろうか。才能?
同じことをしていても感じ方が違うのはよくわかる。感情の振れ幅が違っていたり、幸せ/不幸せな瞬間をとらえるのが上手な人は確実にいる。
じゃあなんでマクドナルドは全世界で売れてるんだ?コカコーラは?
人類の遺伝子に刻まれている「本質」「幸福」がそういうところに潜んでいるんじゃないかと思うことがある。
これを昔の人はイデアとか定言命法とか呼んでたのかもしれない。生命維持活動=食事は人類にとっての幸せと直結していてもおかしくない。
美味いというのは幸せだ、誰にとっても。美味いものだけを食って死にたい。味覚から幸福や本質を考える哲学ってあるのか?
この成分をこの分量で含んだこの料理こそが人類にとっての「幸福」である、みたいな。幸福の味。
でもそれは結局物質でしかなく、形而上的な、なぜこの料理を「幸福」と呼べるのかという答えにはならないか。
全人類が美味しいと思うものはつまり幸福である。間違ってはいないし幸福は物質であっても何らおかしくない気もする。この辺の議論は何もわからないので適当なことを言ってしまっている。
こんな感じでウダウダ考えているとミサイルが頭上を過ぎていく現実に気づけなくなる。
人類にとっての「幸福」とは何だという難しい議論は学者に任せるとして、もっと手前の実用的なところで僕になんとなく見えてるのは、
「幸福を最大化するには、際限なく理詰めで考えなければならない」ということと、「その上で最終的に右脳で選択する」ことで幸福最大化の賭けに勝てる可能性が高まる、ということだ。
周りの人で、成功しているような人たちはここをナチュラルにできるようになっていると感じる。最後まで理詰めじゃなくて、最後は右脳、直観で選択するからこそ腹落ちするし選択に対して前向きに責任を持てる。この腹落ちという概念が肝心。
人生においてどの点をとってもある選択の先は無限に分岐している。
だから何手先まで読めるかというのはかなり重要な要素で、なぜなら読める部分まではその人にとって「明らかに正解」を選べるからだ。
分岐は無限にあるんだから先を読めるに越したことはない。
でも、先を読むことによって、トレードオフな選択が存在することに気がつく。未来のある時点で幸福になろうと思ったときに、近いある選択で不幸な分岐を選ぶ必要がある場合がある。極端な例でいうといい学校に行っていい企業に行くために今嫌いな勉強をめっちゃがんばるみたいなことだ。
ここでどうするのが正解なのかはわからないが、最後の右脳で思い切った選択をとれる人が成功するのかなとも思う。
わかるのは自分がある未来でより幸せになるための布石を打ちつつも、現時点の幸福度を高める戦略を打たないと、人生がじり貧になってしまいしょうもないということだ。
勢いとか即断即決とか突飛に見える行動もうまくいく人にとっては精緻な検討の先に存在していて、数手先で思考を止めて選んだ行動は、目の前の幸福を最大化しはするが持続しない。数手先+αで大損してしまい、結局幸せを長く維持できないからだ。
持続しないのでまた同じように数手のみの先読み行動で幸福を最大化する。この断続的な幸福の最大化というのは心をすり減らす(幸福の最大値を下げる)行為でもある。
瞬間的で短絡的な幸福最大化と、そのすぐあとにある大損の幅が大きいため幅を縮めるために少しずつ幸福/不幸を感受する度合いが下がってくるからだ。
つまりこの行為を続けることで幸福の最大値は0=無となり、何を起こしても幸福になれない未来が待ち受けている。
考えて行動しろ。
行列のできる
今日はお昼に行こうと外に出たら強いにわか雨が降っていて、傘を持っていなかったので5分ほど行ったところにあるカレー屋にすらいけず、いくつかオフィスビルを渡って屋内にあるところで済ませようと思ったのだけど、飲食店街に着いた僕が見たのはそれはそれは長い行列だった。
雨に追いやられて集まったサラリーマンやらOLやらがありとあらゆる飲食店に行列を作り、わずかなお昼休みを他人が食べ終わるまでの時間に置き換えている。
なんとか空いている店を探そうとしても、そもそもその飲食店街の入り口すらどこかの店の行列によってふさがれている。
これはいったいどこまで続いているのだろうとある行列をさかのぼってみた。
2階から始まる行列は階段を下り1階のオフィスビル直結のエントランスの外壁にそってぐるっと一周し、スターバックスの行列と入り乱れながらなんとビルの外まで続いているではないか。
そのまま道路に面したカフェが出している、テラス席用に伸びたテントの下で窮屈そうに雨をしのぎながら待つ人々を越え遂に屋根が消えてもまだ行列は続いていた。
傘を持っていない人はびしょ濡れになりながら昼食を待っている。
この人たちは自分が何に並んでいるかなんてわかっていない。
雨に濡れるのが嫌で屋内で移動できる店で済ませようとしたのに、そのために濡れてしまっては本末転倒だ。
ところが行列はここからまだ先が見えないほど続いていて、この調子だと隣駅まで続いていてもおかしくない。
濡れるのが嫌なのでそれ以上追うことはやめたが、気になって、行列に並ぶ人に「何に並んでいるのですか?」と聞いてみた。
その人はとんかつチェーンの名を答えた。一切悩んだ様子もなく、確信を持ってこの行列に参加しているようだった。
僕は怖くなって、お礼だけしてそそくさとその場を去った。明らかに昼休み中に間に合わない量の列と、この列の先に何があるのかということを知っている様子と、チェーン店にここまで並ぶ必要なんてないということと、行列のほとんどの人間がスマホをいじりながら変な姿勢で待っていること。
気が付いたらお昼休みも残り20分になっていたので、結局僕はオフィスビル内のファミリーマートで売れ残っていたペペロンチーノを買って昼食を済ませた。
レンジでそれを温めてもらっていると、同じように行列を嫌がってコンビニに流れ着いた人たちがまた列を作っていく。
この人たちは確かに確信して並んでいるのだ。
物理法則のようだと僕は思った。
無思想無頓着
聴くと胸が締め付けられる曲がある。それは曲調の問題ではなく、俺がそれをどの時期に一番聴いていたかという記憶の問題だ。でももっと言えばそのころを思い出さなくてもなぜか泣きたくなるような曲だってある。それはどこに由来しているんだ?
もう書くことがなくなってしまった。
ブログを書きたいという思いはあるし、お題を募集したり、思いついたテーマをコツコツとEvernoteの残してもいる。
でもいざこうしてPCを開いてキーボードに手を置くとすっかり俺は面倒になってしまう。これは俺の本能が俺が思って入る100点のことを絶対にかけないということを知っているし、それなりのものを書こうと思えばかなりの時間を要することになるのに、仕事から帰ってきて何もすることがないときに開いたって良いものができるわけがない、だからやめろと警告しているのだ。
とはいえ書けないなんてことは絶対になくて、なぜならキーボードを打てば文字は記録されていくから。
だからたぶん書くことがなくなったっていうのもウソだ。
こういう話をだいぶ前にもしたような気がする。
大体なにかを書ける人なんて本当にほんの一部だと思う。勉強の方法論だってスポーツの練習だって楽器の演奏だってちゃんとできる人なんて1000人いて1人というのはよくいう話だけど、こういう風に適当に何かを書いても550字ぐらいはいく。
人生で書ける文字の量が決まっているとして、この550字は無駄だったのだろうか。もう書けないようむにゃむにゃみたいな夢を見ることはない。
それなりのものを書けるようになるのに何年、というか、何文字かかるんでしょうね。
スポーツとか英語の勉強とかだと言われてるじゃないですか。シュート何本とか、リスニング何時間とか。
お話とかブログを書くのって、何文字ならそれなりといえるんか。
でもそれなりに書くというのはお湯が沸くみたいに徐々にできるようになってそれなりの合図が出るのではなくて、なんかよくわからんうちにそうなってるのかもしれない。
バルミューダの電気ケトルほしいんですよね。
あれかっこいいじゃないですか、使いやすそうだし。
僕結構コーヒー好きでわざわざ豆買いに吉祥寺くんだりまでいったり、東京のコーヒーのイベントも結構行くんですけど、電動ミルもなければポッドも1200円ぐらいのよくわかんないやつなんですよね。
それをどうにかしようと思ってた最近です。
そろそろこのPCの再起動が始まるらしい。
これで大体1000文字。思想がないというのは良いことだ。