film.

だれも知らないまちへふたりで

事実は風化しない

こんにちは。
みなさんシルバーウィークどうでしたか?
僕はキャンプに行ってきて、最高の連休を過ごしました。
学生なのでシルバーウィークをあんまり意識したことなかったんですけど、周りに社会人がいるとそのスケジュールで動くから気が付きますね。

この前東浩紀の弱いつながりを読みました。たぶんいろいろ言われていると思いつつもレビューは全く読んでなくて、だから純粋に僕が思ったことをちょっと書いてみます。
ここで語られるテーマは「グーグルが予想できない検索語を見つけよう」みたいなことで、それは「リアル」からしか得られないらしい。なぜならグーグルでは検索したい語しか検索できないので、グーグルの予測できる答えしか用意されていない。その検索スタイルは自らの求めるつながりをどんどん強くしてしまう。つまり階級(所属)を固定してしまう。それはしんどいので、もう少しゆるいつながりを持って無責任・観光客精神で生きてみようよ、という風な話をしていました。手元にないのでちょっとズレてるかも。

まあそんなあらすじはどうでもよくて、僕はそこに書かれていた「福島の地震をどう風化させないか」ということへの取り組みに感じることがありました。
東さんは福島観光地化計画を考えていて、実際にチェルノブイリに足を運んだりもしている。チェルノブイリではすでにツアーが組まれているし、みんなが想像しているほど悲惨な状況ではないらしい。

余談だけど、僕はチェルノブイリは完全に廃炉になってて、誰もいないのだと思い込んでいました。でも発電をしないだけで、送電施設としては動いているらしく、だからチェルノブイリで働いている人がいる。そしてあたりまえに食堂があり、バスが走り、ある程度町として機能している。
ちょっと見方が変わりました。その悲惨さだけがピックアップされすぎているのは間違いないけれど、それに対して何の疑問を持たなかった自分もちょっと危ない。自国で同じような状況になっているかもしれないことを考えると、もっと疑う態度を持たなければならないと思いました。

話を戻します。
東さんいわく、いずれ「フクシマ」は風化してしまうのだ。チェルノブイリだってそうだった。アウシュビッツだって収容所が残っていなければそもそも虐殺なんて存在しないと言われていたかもしれない。
でも、モノが残っている限り風化させない取り組みは可能だ。
何もモノが残っていないと、解釈次第になってしまう。そして解釈次第だと、いいように解釈されるし、それは「記憶」でしかなく、記憶は風化する。忘れてしまう。
一方フクシマチェルノブイリは、そこに足を運び、見ることができる。ツアーを組み、観光客を集めるというのは見る人にとっては不謹慎かもしれないけど、それができないまま風化してしまった/しつつある何かもある。
それらと同じように忘れられてしまうより、モノがある利を活かしていろんな人がその場に訪れるようにすることができる方がよっぽどいいのではないか。誤解を招く言い方かもしれないけど、無責任な観光客が現場を訪れて上面をなでるような感想を抱いて帰っていったそれだけでも、風化はしていないのだ。それがもし、何百年続いて生き残っていくのであればもはや歓迎すべきことではないでしょうか。

悲惨さを受け止め、悲しみ、祈ることも間違いなく大切です。だけどそれは記憶でしかありません。記憶は受け継げない。記憶は風化してしまう。
記憶も解釈も文書も教室も全部風化します。けれど事実だけは風化しない。そこにあったことはあったままなのです。
だからモノを残して、「学び」を提供しようという態度こそがより重要になってくるのでしょう。