film.

だれも知らないまちへふたりで

踊り場

長年こうやっていろいろ書いている文章でさえまだまともにこなせていないというのに、俺は楽器がやりたいだの絵を描けるようになりたいだの、果ては事業を起こし遠くにいる誰かを救いたいなどとやりもしないことばかり想像し、口に出し、手と足はどこにも出さない。

タイにいた浮浪者や、フィリピンで出会ったストリートチルドレンや、マレーシアで見たツインタワーの隣の路肩で物を売るおじいさんや、彼らの未来を現実のものとして想像したことはあるのか。
俺は彼らを見てこういう人たちのために生きようと、当時は思ったはずなのに、そこに向けて進んだのはほんのわずかな距離だけという実感があり、どうしようもない。
そもそも暮らしさえままならず、給料日から給料日までを何とかやり過ごしているだけなのだ。
でも仕事をし始めて学んだのが、世の中の9割9分の人は外に対して強い志向がない生活をしているということ。それ自体は何も悪くなくて、個人の幸せをちゃんととらないと、全体の幸せにはならない。儲けるだけのために会社をやっている人だってたくさんいる。
それでもなお、こらえきれないものがある人たちが何かを模索して、生み出して、そういうことを何百回何千回繰り返して初めて、世界を一つバージョンアップできる。
物々交換から紙幣、馬車から自動車、手紙からインターネット、現実から仮想、それらは全部怪物たちが苦しんで生み出したものだということを、自分のものとして思えるようになったというのも、一つ学びかもしれない。
一方で、実はそんなことないんじゃないかと思ってる自分もいるけど、それはそれとしてどこかのタイミングで引っ張り出してくることにする。

世界を救うのも絵を描くのもブログを書くのも、何にもできていない俺には何を言ってもウソくさくて、エゴでしかない。エゴで誰かが救えるなら大したものだが、発表して終わりのことが多いので、どっちかと言えば自慰みたいなものだ。
本当に何かをしたいと思っているならこの文章だって英語を併記しなきゃいけない。

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「本当にそう思っているなら」と自問することで、俺は俺の中ですべてを終わらせてしまう。
恥ずかしくなって上に書いたようなことも人前ではほとんど話さないし、どこにも書いたりしない。誰にも読まれないところにだけ吐き出すようにしていた。
でも思ってしまうことは仕方ないのだ。
行動になろうがならなかろうが、俺の思考は本質的に俺にしかできないものだということを認め、それを恥として押し込めてしまわず、オープンにすること。
万が一もない確率だけど、これで誰かが救われるかもしれないし。

こういう風に、俺はもう長らく「踊り場」にいるような気がしている。
よく言われる年収とかキャリアの、という文脈ではなく、俺がこれ以上俺としてアップデートされることがないんじゃないかという意味。思考の踊り場?
抜ければ”成長”になる、みたいなイメージでもないから、何といえばいいんだろう。
とはいえこんな閉塞感にいつまでも悩まされていても仕方ないから、目の前のことを一つ一つやっていくしかない。気持ちと思考と体を全部分けて上から糸を引いて動かす感じで。
そうやっていつまでもダンスしてるかもしれないし、いつのまにか2階に飛んでるかもしれない。

書いてみたけどあんまり読まないでほしいな。では。