film.

だれも知らないまちへふたりで

ひまわりの海

・ひまわりの海

 寒いよね。
 まだ大丈夫だよ。
 でもさ、こうやって、「寒いね」って言って「まだ大丈夫だよ」って返ってくるような関係はあたたかいよね。
 くせー。今寒くなったから早く帰ろうよ。
 寒すぎる。いっそ南半球に飛んでいっちゃいたいぐらい。


 なんて会話があったのは一ヶ月前、秋の終わり。寒いのが苦手な彼女は、少し冷たい風が吹くとすぐ「寒い」と口にした。だから彼女の「南半球に行きたい」という言葉も冗談だと思っていたが、そのくさいセリフを吐いた彼女は、本当に南半球に行くことになった。行き先はアルゼンチン。親の会社の都合で、という何とも不明瞭でありがちな理由だった。
 そしてそれを聞かされたのは彼女の口からではなく、クラスの担任からだった。どうして直接言ってくれなかったんだろう、と彼女の席を振り向いたがいなかった。当たり前だ。その日彼女は学校を休んでいた。
 私は授業が終わってすぐ、部活動も休んで、彼女の家に向かった。走った。
 何度も行ったことのある彼女の家は、最寄り駅から少し遠いところにある。駅を降りてすぐ走る。一ヶ月前には、アルゼンチンに行くことを彼女は知っていたはずなのに、どうしてあんなことを言ったのだろう。思わず口走ってしまったのかな、私に気づいてほしかったのかな。いつものクレープ屋を通り越して、三つ目の角を曲がると、彼女の家がある通りに着く。
 彼女の家の前にトラックが止まっているのが見えた。荷物を運び込んでいる彼女が見える。あれ? 出発は一週間後じゃなかったの? もうひとっ走りした。
「ちひろ! どうしたの?」と彼女の驚く顔。その後すぐ笑みを浮かべて「そんなに急がなくても私はどこにも行かないよ」
 どうしても走らずにはいられなかったのだ、と言い訳したいけれど声が出ない。いや、今はそんなことはどうでもいいのだ。私は肩で息をしながら言う。
「だって、はあ、ともちゃんが、はあ、外国に、はあ、アルゼンチン」
 私が言い終わらないうちに彼女が「大丈夫?」と心配そうな目で私を見る。
「とっても疲れてるみたいだし、まあ、あがりなよ。片付いてるよ、何もないというのが正しい」彼女は笑う。
 彼女の部屋に入ると、部屋を作り上げていたものたちは消えてしまっていた。勉強机も、読みかけの雑誌も、衝動買いしたプラモデルも、旅行先のきれいな景色を撮った写真の入った額縁も、陸上部の大会で優勝したときの賞状とトロフィーも。あるのは、大きめのベッドと低いテーブル。
 あと、彼女がずっと育ててたひまわりだけだった。もう枯れているのにずっと置きっぱなしだった。天窓から差し込む夕陽が、うつむくひまわりを染めている。私は実感する。彼女は去ってしまうのだ。
「きれいでしょ。部屋、こんなに広かったんだね」
 もう一度見渡す。
 広かった。ただ広いだけの空間がたたずんでいた。
 散らかってたのが懐かしいねと彼女。そうだね、と応えたかったのだけれど、声が震えてうまく言えず、歯の間から空気が漏れる。
「何か言った?」
「なに、も」
「座ってて。お茶入れてくるから」

 彼女はどたどたと階段をおりる。私はひまわりと向かい合って座る。夕陽が眩しい。今年の夏に彼女について買いに行ったサボテン。服を買いに出かけたショッピングモールで、私がトイレから帰ってくると彼女が何かをぶら下げていた。
 聞くと、ひまわり! と彼女は威勢の声で言いのけた。「部屋で育てるんだ。冬を越える強いひまわりにする」
 そんなことできないだろうと思っていたら、案の定無理だった。夏はぐんぐん育って、ピークを過ぎると種を落として眠りにつく。この前きたときにすでに枯れていたから、「元気なひまわりですね」と茶化してやると、「復活するから」と彼女が真顔で言ったのを覚えている。息が整って、少し落ち着く。
「なかなか復活しなくて困ってるんだよ」
 後ろから声がして、振り返るとお茶とお菓子をお盆に乗せた彼女がいた。
「もう無理でしょ」
「何をおっしゃる。まだ一週間あるのに」
「一週間? これ、向こうに持って行かないの?」
 こんなに運びにくいもの、持って行くわけないか。
「うん。かといって処分するのもいやだし、どうしようかな」テーブルに盆を置いて座る。私も体ごと彼女の方を向く。
 大事に育ててたからね。でも処分しなよ、枯れてるし。どうしたものかと彼女が唸る。
 沈黙とお茶をすする音。少し経って「あっ」と彼女が思いつく。
「何?」
「ちひろにあげるよ、これ」とひまわりを指差す。

 私の家の庭に枯れたひまわりが仲間入りすることになった。結構な勢いで断ったけど、彼女の押しに負けて了承してしまった。
 「そうと決まればちひろの家にゴー!」と彼女が父親に頼んで、そのひまわりと私を家まで届けてもらった。
 別れはすごくあっさりしたものだった。
 「準備が忙しいから、もう学校に行けないかも」「そう」「もっと悲しんでよ」「出発の日、見送りに行くよ」「ほんとに? ありがとう」
 彼女の車が見えなくなるまで見送って、深呼吸した。家の戸を開けて、おかーさーん、ひまわりもらったよー。

**

 あれから一ヵ月と少しあと、彼女から手紙が届いた。メールでいいのにと思いながら開くと、細くて整った字の手紙には、海外から母国の友へ手紙を送るのが夢だったと書いてあった。彼女らしい。
 最後に、写真をつけましたとも書いてある。封筒をひっくり返すと、写真と、種が一つ机に落ちた。
 写真は、とてもきれいなひまわり畑だった。細い一本道の両側にたくさんのひまわり。雲ひとつない空と、太陽。
 庭にあるひまわりを、部屋の窓から見る。相変わらず下を向いたままだった。
 写真と比べてみると、その違いがはっきり分かる。その写真の右下に、黒いマジックで何か書かれているのに気づく。

 

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『ひまわりの海からひとすくい、冬を越える強い種』