film.

だれも知らないまちへふたりで

エスカレーターにモノ申す

エスカレーター、あれはよくない。
地域によって右寄りだの左寄りだのルールが決まっていてややこしい。
さらにこのことばは政治的な意味を含んでいるようにもとれる。「大阪は右寄りなんだって」などと言えば、まるで大阪が街を上げて右翼なのかのように聞こえてしまう。
これはよくない。
そもそも地域によって立つ位置が違うというのはいったいどういうことなんだ。
同じ国同じ人間が乗るものを同じ乗り方をしないでどうする?もし車が、「東日本は左側通行だけど西日本は右側通行」だったら日本はめちゃくちゃになってしまうぞ。今日本がめちゃくちゃになっていないのは、日本人の良心がなせる業であると言ってよいだろう。ニッポン、バンザイ!
エスカレーターに乗っているとこんなアナウンスが流れる。「歩くと危ない」
本来は街を歩いているだけでも危ないのだ。人間たちはそれを無視してアホな顔してやれ通勤だやれ通学だなどと鉄の機械に身を任せている。
そのアナウンスを流すならもっと繁華街で流すべきだ。歩くと人にぶつかったり赤信号を無視して死んでしまったりして危ないので、歩かないでくださいって。
でも街で歩かなかったらどうなるんだ。
歩くのは人のサガだ。だから歩くと危ないから停止しろなんて言うのは人であることをやめろといっているのと同じだ。
だから、みなはもっと歩くべきだ。他に歩いている生き物を見たことがあるか?俺はない。
他の動物は阿呆だから、歩くことを知らず、体力を無駄に消費して走り回っているのだ。食欲と生存欲求という本能に縛られ、舌をぶらりと垂れ、次の瞬間もこの平穏な時が続くと思っている。
そんなわけがないだろう。お前は走っているのだぞ。いつ死ぬかわからない。

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移動は死だ。

死ぬものはみな移動する。
いや、移動できなくなった者から死んでいくのかもしれない。寝たきりのババアがそうだ。俺も歳をとったが、まだ元気に畑仕事をしているのだから、そこらのババアと同じにしないでほしい。
移動と死が密接につながっていることに気が付いたのは俺が初めてなのではないだろうか。
少し考えればわかることだが、移動すれば疲れる。疲れるということは、エネルギーを消費しているということだ。エネルギーを消費するということは、命を擦っているということだ。
移動は死に近づく手段であると言える。
君たちは死がこわくないのだろうか。
日本全国1億ン千万人が毎日移動し、移動しつつ死んでいる。
これは比喩ではなく本当に移動の最中に死ぬ人間もいるから恐ろしいものだ。

ところで俺は今肺がものすごく痛いのだが、これも移動の代償に違いない。
俺は移動以外に健康に悪いことは何もしてこなかったのだから。酒もタバコもクスリも一切手を出さなかった。
それなのに肺がこんなに痛いのは、ひとえに俺が移動を続けてきたからに違いない。
それもまあ仕方のないことなのだ。俺は愛する者のために移動してきた。家族、友人、職場の人間、コツコツ移動してきた。時には夜通し移動することもあったが、今となってもいい思い出だ。

畑仕事が飽きたら移動でもしようか。
遠いところに移動して、適当な店に移動しよう。
もうずいぶんと呼吸が苦しくなってきたけれど、幸いまだ足は元気で、視界も良好だ。
俺はまだ移動ができる。
最後ぐらい、みんなと移動してもいいだろう。さあ、とおくへいこう。