film.

だれも知らないまちへふたりで

ことばの限界についての一言

4月から社会人を初めてもう少しで1か月が経とうしていて、5月には大型連休が待ち構えている。
俺は未だ研修中で、毎朝起きて満員電車に揺られて出勤してなんとなく社会に溶け込んでいる。帰り道に近くに見える東京スカイツリーもすでに見飽きてしまった。
けれど自分事として実感している社会人の『この感じ』にまだ俺は慣れていない。
とはいえ日本だし、周りには日本人しかいないし、学生のころ過ごしていたのと少し変わっただけだ。すぐになじんでしまう。

同時に、俺は『あの感じ』を思い出すこともある。
あの感じというのは、東南アジアにいたころのあの感じだ。
あの空気、あの人々、あの朝、あの町、あの市場…。
時々思い出して、日本とは比べ物にならないぐらいのラッシュや朝の渋滞さえも懐かしく思えてくるのだから思い出が美化されるというのは本当のことらしい。
ことばを尽くしてあの生活を説明しても、俺が体験した『あの感じ』は誰にも伝わらない。
これは非常に悲しいことで、俺は『あの感じ』こそが海外に行くことで得られる最も重要な体験だと思っているのにこれを誰にも伝えることができないのだから。

というか、海外に行くこと以外にもみんなそれぞれ『あの感じ』『この感じ』を持っているはずで、誰もそれを説明できたことがなく、大昔からこういうことを考えている人たちのことを哲学者と呼ぶのかもしれない。

俺はこの誰もそれを説明できたことがないということに対して抱いている『この感じ』を説明したいのに、またしてもことばがなく、今日はこのあたりでブログを終えて寝るし眠っているときの感じも説明できない、眠い。