こんな街抜け出してしまおうよ

だれも知らないまちへふたりで

小話を書いています。

「海」
砂糖を入れようとして間違えてコーヒーに塩を入れてしまった息子が、それを飲んで「しょっぱい」と苦い顔をする。もう一度確認するように一口飲み、「やっぱりしょっぱい!」と声をあげた。砂糖と塩の容器が似ている上に並んでいたことも重なり、普段キッチンに立たない息子はどっちがどっちがわからなかったようだ。
「ほんとは苦いだよ」と笑いながら声をかけると、息子は水面を睨め「不思議だ……」と怪訝そうな顔をしている。まだ塩を入れてしまったことに気が付いていないようだ。
「混ぜ方が悪かったのかな」
息子はマドラーを反時計回りに回す。一口飲み、味が変わらないことを確認した。
「じゃあ飲み方か……」
とさまざまな飲み方を試していたが、結局何も変わらなかったようだ。私が「砂糖じゃなくて塩を入れちゃったんだよ」と答えを言うと、
「ああ!だから海の味がしたんだ」
海の味。おもしろい表現をする。私たちがもはや気にしていない塩は海から取れるということは、息子にとっては最近獲得した知識だ。学校のプールと違って海に入って水を飲めばしょっぱいということから、液体でしょっぱいものは、息子にとって「海の味」なのだ。私たちが海の味といえば、どちらかといえば魚介類を連想するが、息子の感性は純粋な表現だった。

 


「パステルワールド」
河川敷せみのなき声日暮れどき
恋で色づけ淡い日は夏


「電車・ねずみ・携帯電話」
特にすることのない日に特に予定もなく外に出て、そのまま目についた駅から乗った電車は環状線だった。初夏の爽やかな日の昼下がり。営業のサラリーマンや病院に向かうであろう老人や中国人観光客がちらほらと乗っているだけで、どちらかというと空席が目立つ車内だ。僕は片手に持った本をパラパラとめくりながら、窓の外に流れる景色を眺めている。
もう四周目に入ろうという頃だろうか。テーマパーク行の電車への乗り換え駅で、鳥の被り物をした男や恐竜のペイントをした女が乗ってきた。まだお昼なのにもう帰るのだろうか。それ自体はよかったが、車内が騒然としたのは次の瞬間だった。
テーマーパーク気分の男女たちの後ろからなんと、大量のねずみが乗り込んできたのだ!
一瞬、だれも反応ができなかった。ねずみを認識できた順から逃げ出す。足の遅い老人はねずみに足をとられ、灰色の沼にダイブする。サラリーマンは我先に車外に飛び出し、中国人は荷物を全部捨て去り体一つで逃げ出す。さらに驚きなのは逆側のホームで電車を待っていた人たちがスマートフォンを構えて動画や写真を撮っていることだった。異常事態にすぐに適応したのか、防衛反応としての行動なのかわからないが、ねずみよりもむしろそっちの状況が僕には受け入れがたかった。
そして僕はというと地を走る大群を避けるべく椅子の上に立っていた。右手には『パニック』を持っていて、こんな奇跡が起こるものかと妙に冷静な自分がいた。


「お米」
作るのに八十八人必要だから、と考えた人間がこの光景を見たら、何と言うだろうか。理解ができなくて気絶してしまうかもしれない。現代、米を作るのに必要な人手は1だ。なぜなら、ボタン1つで米を構成する成分と全く同じものでできたカプセルを作るマシーンが完成したからだ。一家に一台、創米機。
カプセル化は米だけではない。肉も魚も野菜も、おおよそ人間が口にするものはすべてカプセルになってしまった。5秒で摂取できて、同じ満腹感を得られるし体にもそのものと同じ影響を与える魔法のようなカプセルだった。
そうして私たちは食事の楽しみを失った。
実物を食べる人間は変人扱いされ、実物を調理する料理人は動物保護団体に追い回されている。町からレストランは消え、大きな自動販売機がとってかわった。スーパーマーケットもほとんどが閉店し、かろうじて残っているスーパーマーケットにはカプセルが並び、狭小なスペースに少しだけ実物が残っている程度だ。
そして今日、世界からまた一つ、人間の行為が消えることになる。
「睡眠を30秒に短縮できるベッドが開発されました」

「秘密はありますか?」
「秘密はありますか?」
今日も秘密発見器は訊ねる。私は「ない」と簡潔に答えて、玄関を出た。
いつからだろうか、この町の人々にプライバシーはなくなってしまった。最初はマイナンバー制度という一見便利そうな制度だった。しかしそれは徐々に町の人の私生活を暴くものと変化していき、今では全世帯の玄関に取り付けられた「秘密発見器」により、すべての秘密は文字通り外に出ないようになった。すべての秘密は政府に監視され、問題になりうると判断された秘密に対しては警察が介入し、未然にその可能性を防ぐのだ。
こうなったときにはもう遅かった。気が付いた人々が反政府組織を立ち上げようともくろむも、それすら秘密として感知され、組織として形をなせない。
『すべての人、社会をクリアーに』
町には政府が掲げたスローガンがいたるところに張り出されている。今日も町では秘密を暴かれた人間がドローンに連行されていく。人々はうつむき、笑顔もなく仕事へ、あるいは学校へ、あるいは刑務所へ向かうのだった。

 

「何でも質問してください」
何でも質問してください、と彼が言った。彼はなんでも知っているようで、たとえば宇宙の広さとか蟻が歩く速度なんかを訊いても明確に答えてくれた。知らないことはないの?と聞いたところ、今のところない、と彼は他の質問に答えるのと同じ調子で答えた。けれど彼におごったところは全く感じなかった。淡々と質問に答えていて、まるでそういう機械のようだった。
彼はテスト前になると人気者になる。今度の国語に出そうな問題、とか、数学の公式、とかを聞かれている。そんなのもはや質問じゃないじゃん、と思うのだけど、彼はいつも通り回答して、100パーセントではないにしてもその的中率はものすごいものらしい。
今回のテスト期間も例によって放課後彼の周りに人だかりができていた。解放されたころには18時を回っていた。彼に疲れた様子は全くなく、帰ろうかと私に声をかける。
帰り道、ふといじわるをしたくなって彼に質問をしてみた。
「私のこと、すき?」
彼は無表情で答えようと口を開いた瞬間、そのまま固まり、顔をみるみる赤くさせたのだった。