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だれも知らないまちへふたりで

「備忘録」か「忘備録」か

結論から言うと別にどちらでも問題はないらしい。ただ、「備忘録」の方が広まっているので、「忘備録」と言ってもすぐにわかってもらえない可能性があるかも。

まあ、そんなことはどうでもよくて、全く同じ意味の言葉が二つあるの、本当にやめてくれ。祖先と先祖でも同じパターンだけど、単語の前後を入れ替えても全く同じ意味が成立するの、混乱を生むだけだろ。あと、インターネットにいる揚げ足取りで生計を立ててる人たちが鬼の首を取ったように出典不明の知識で指摘してくる。たとえば「備忘録」だと、誰かがふと「忘備録」と書くと、すかさず「”備忘録”な。これだからネトウヨは~」などと急にお偉いさんになるのだ。これでお金儲けをしているのだからすごい。

いや、僕はインターネットの人たちにモノ申したいわけではないのだ。日本語としてどうなのかという話をしたい。
だって、「田中さん」が「中田さん」になると別の人じゃん。田中さんを中田さんと呼んでもいいなら病院の待合室とか大変になるよ。田中一郎と中田一郎が同じ場所にいたら、「田中一郎さん」と呼ばれたときどっちが立ち上がればいいかわからなくなるジレンマが生じるし。
ないと思うけど、「先祖太郎さん」がいたら、どうするんだろう。先祖太郎さんは「先祖太郎」という名前にアイデンティティを持っているのだけど、周りの人はみんな「あれ?先祖だっけ?祖先だっけ?」となる。そういうことが増えてくると、先祖太郎さん自身も自分が先祖なのか祖先なのかわからなくなってしまう。文字通り先祖代々受け継がれてきたはずの『先祖』という姓を失う。そして先祖太郎は名の連続性から解き放たれ、本当の意味での自分を見つけるのだ。先祖太郎が先祖太郎であるのは、その名が唯一の所以ではないのだ。自らが持つ性質、特徴、長所、その他もろもろの彼を構成するもの、それが先祖太郎を先祖太郎たらしめている。名はその中の一つの要素でしかない。先祖太郎は名がなくても生きていけることに気が付いた。それは名に苦しめられていた先祖太郎にとって青天の霹靂であった。
もう先祖太郎を苦しめるものはなにもない。彼はのびのびと生きるようになった。

先祖太郎は今、病院の待合室にいた。
しばらく待つと、名前を呼ばれる。「先祖太郎さーん」
先祖太郎は立ち上がった。同時に隣にいた男性も立ち上がった。そしてなんということか、同じ診察室へ向かうではないか。
「君、名前を教えてくれないか」先祖太郎は尋ねた。すでに悪い予感がしている。
「僕かい? 僕は、祖先太郎さ」
先祖太郎の心臓は急に激しく動き出した。
「言わせてもらうが、祖先太郎さん。今呼ばれたのは僕だ。なぜならナースは『先祖太郎さん』を呼んだのだから」
「いいかい、先祖太郎さん。先祖も祖先も同じ意味だ。だから僕にとって、先祖太郎と呼ばれようが祖先太郎と呼ばれようが関係ない。どちらも同じ名なのだから」
ここまで言って、祖先太郎は気が付く。どちらも同じ意味であるのは先祖太郎にとっても適用されることに。
先祖太郎が診察室に入って、祖先太郎の症状で診察されたらどうしよう。その逆だったら? 二人同時に入る手は? いや、余計に医者を混乱させるだろう。僕たちは、どうすればいいんだ?

かくして先祖太郎と祖先太郎は診察室のドアの前で立ち尽くすことになる。
二人は結局、診察をあきらめて家に帰ることにした。幸いそんなに重症ではなかったのだ。

これが現代で「先祖がえり」と呼ばれていることは、あまりにも有名な話だ。