film.

だれも知らないまちへふたりで

散歩は良い。

こんにちは。

僕は目が悪くてメガネかコンタクトをずっとしている。さっき、メガネをかけずに外に出てコンビニでホットコーヒーとストロベリーチョコクッキーを買って夕暮れの町をふらふらと散歩してみた。
もう20年以上も住んでいるが、少し横道に入れば全く知らない町が広がっている。ただし、僕はメガネをかけていないのでぼんやりとしか見えないし、看板の字なども読めない。けれど僕にとってはそれが本当の世界なのだ。メガネをかけているとき、僕は自分の目で何かを見ているわけではない。レンズを通して調整された世界を見ていて、たまたまその世界が正しい見え方とされる世界に住んでいるだけだ。僕の目が間違っているわけではない。そもそも、みんなが同じ世界を同じように見ている保証なんてどこにもない。この字」だって「この色」だって、僕にだけ「この字」「この色」に見えているかもしれない。同じようにこの世界は、僕にだけ”この世界”に見えているのだ。そう思うと急に、看板に書いてあるぶれぶれで読めない字も遠くから来る自転車のようななにかも愛おしくなった。よさげなベンチを見つけたので今度は本を持ってそこへ行って読みながらコーヒーを飲もうと思った。花粉症で鼻をずるずる言わせながら。

ということで、散歩は良い。

何となく曲がった先が住宅街で、クラブ終わりらしい中学生や犬の散歩をする夫婦や特になにをするでもなく外で立っている老年のお婆さんなどがいた。
ふと、この人たちも生きているんだと当たり前すぎることに気がついた。気がついた途端、僕を取り囲む家々の明かりの先にも人がいて、そこにいる人たちにもそれぞれの生活があることを実感して、急に僕が相対化されてしまった。さっきまで「この世界は僕だけのものだ」とか思ってたのに、忙しいな。
時々電車を乗っているときにある。「この窓から見える町の人々の生活」が目の前に迫ってくる感覚だった。いつも夕方に乗っているときに思うし今回も夕方だったので、夕日やオレンジにはそういう作用があるのかもしれない。
しかし、ここにいる人たちはどうやって生きているのだろうか?
生活をしているということは何かしらをしてお金を手に入れてそれでご飯を食べたり住んだり服を買ったりしているはずだけど、その”何かしら”が何かわからない。別に人に限らない。犬だってカラスだって生きている限り何か生命を維持する活動をおこなっている。僕にはそれを知る由もないが
知る必要もないのかもしれない。僕が知らない、見えない世界はどう動いていようが、ないようなものなのかもしれない。というか僕の知らないところで勝手に動いてるのもこわいので、ないと考えた方が都合がいい。
そういう風に考えると、僕がすれ違った人たちはすれ違ったあと僕の死角で消えているし家の中にいるだろう人たちも僕が確認しない限り存在していないのだ。これで気楽になった。

ということで、散歩は良い。

時間を全く気にせずぷらぷら歩いて、電子機器も目にしないまま帰ってきたが、今僕はそのアナログな経験をブログに書いてみんなに届けようとしている。
散歩の話をブログに書こうと決めたとき、なんで書きたいんだろうと考えた。僕は良いものをみんなに届けたいのだと思った。スマホでしか見えない世界も、散歩でしか見えない世界も誰かの世界ではなくあなただけの世界なのだから、満喫してほしい。みんなが散歩をして、いい体験をしてほしいと思った。
いいものを届けられる人になりたいなあと、なんとなく考えるのだった。

ということで、散歩は良い。