書く練習
「最近全然更新してないな~。とはいえどれだけ前でも10月ぐらいに一回更新してただろうな」
「8月!?!?!?!?!?!?!?!?!?!??!」
「半年も前なのかよ」
「俺はこの半年間何をしていたんだ?」
「そういえば8月のこのころ何となくブログを非公開にしたことは憶えているけど、理由もいつ非公開を解除したのかも憶えてないな」
「たぶんこのころが一番仕事も私生活も暇だった気がする」
「9月末~10月あたりにめっちゃ忙しくなってきて、やっと今落ち着いてブログを開いたら最終更新が8月でびっくりしました」
「半年も何も書いていないと書き方を忘れてしまったようで、こんな変な文の切り方になってしまっています」
「いろいろ書きたいことはあるものの、最近は家に帰ってきて早寝タイムアタックをしているのでパソコンすら開かない日々でした」
「そもそもパソコンも古くなってきてめっちゃ重いし」
「そういえばMAC BOOKほしいんですよね」
「社会人になってある程度生活に余裕も生まれたら貯金して買おうと思っていたんだけれど、もうその社会人生活が2年目に突入しようとしていることをいつも同期と話しています」
「このまま一生生活に余裕が生まれなかったらどうしよう」
「一生別に豊かではないけれど貧困するわけでもない稼ぎで、東京で何となく暮らして老いていく」
「いや、よく考えたらみんなそんなもんか」
「ギャンブルで一発当てるしかねえと俺は思って競馬で100万ぐらいスってヤバいことに気がつく」
「消費者金融の利息を支払うのに精いっぱい」
「会社に行くために起きることすらできず」
「なんとなく昼に目が覚めてまたギャンブル場に向かう俺」
「パチンコを打って負けてそれを取り戻すために競馬でまた負ける」
「それだけならまだしも、俺は裏カジノにまで手を出してしまう」
「借金はウン千万円に膨らむ」
「もうだめだと思ったその時!」
「少し前に勝っていたロト6が見事に当選!」
「なんやかんやで5億を手にした俺はすべての借金を返済し、晴れて自由の身になる」
「自由といえばここ2か月ぐらい平日はプライベートがない生活だったんですけど」
「世の中にはもっと、夜中の3時とか4時まで働いて帰ってきて10時に出社するみたいな生活を送ってる人もいる」
「そう考えると本当に24時間働いている人ぐらいしか、本当の意味で働いているとは言えないんじゃないか?」
「何を言っているんだ俺は」
「定時で上がるのが一番良い」
「定時で上がることで2時間分の残業代を付けるとかにすればみんなもっと仕事を頑張ると思う」
「だって2時間残業しても定時で帰ってる人と同じ稼ぎなんだから」
「少なくとも日が変わる前には家に帰るべし」
「俺はがんばって何もせずに毎日6時間以上寝るようにしてるのに、なぜかねむいから昨日は定時で帰って23時には就寝したのにやっぱり朝起きれなかったので、もうずっと寝てないとダメなのかもしれない」
「でも土日は意外とすっと起きられるから、精神的な問題もあると思う」
「眼が冴えて眠れなくなるスイッチほしい」
「それか職場がめっちゃ近くなってほしい」
「職場がめっちゃ近くなるとアホみたいに働いてしまうからやっぱやだ」
「そろそろ12時になるのでお風呂に入って寝ます」
「月に2本は書いていきたいと思っている所存です」
「今回こんな感じになったのは許してください」
ひまわりの海
・ひまわりの海
寒いよね。
まだ大丈夫だよ。
でもさ、こうやって、「寒いね」って言って「まだ大丈夫だよ」って返ってくるような関係はあたたかいよね。
くせー。今寒くなったから早く帰ろうよ。
寒すぎる。いっそ南半球に飛んでいっちゃいたいぐらい。
なんて会話があったのは一ヶ月前、秋の終わり。寒いのが苦手な彼女は、少し冷たい風が吹くとすぐ「寒い」と口にした。だから彼女の「南半球に行きたい」という言葉も冗談だと思っていたが、そのくさいセリフを吐いた彼女は、本当に南半球に行くことになった。行き先はアルゼンチン。親の会社の都合で、という何とも不明瞭でありがちな理由だった。
そしてそれを聞かされたのは彼女の口からではなく、クラスの担任からだった。どうして直接言ってくれなかったんだろう、と彼女の席を振り向いたがいなかった。当たり前だ。その日彼女は学校を休んでいた。
私は授業が終わってすぐ、部活動も休んで、彼女の家に向かった。走った。
何度も行ったことのある彼女の家は、最寄り駅から少し遠いところにある。駅を降りてすぐ走る。一ヶ月前には、アルゼンチンに行くことを彼女は知っていたはずなのに、どうしてあんなことを言ったのだろう。思わず口走ってしまったのかな、私に気づいてほしかったのかな。いつものクレープ屋を通り越して、三つ目の角を曲がると、彼女の家がある通りに着く。
彼女の家の前にトラックが止まっているのが見えた。荷物を運び込んでいる彼女が見える。あれ? 出発は一週間後じゃなかったの? もうひとっ走りした。
「ちひろ! どうしたの?」と彼女の驚く顔。その後すぐ笑みを浮かべて「そんなに急がなくても私はどこにも行かないよ」
どうしても走らずにはいられなかったのだ、と言い訳したいけれど声が出ない。いや、今はそんなことはどうでもいいのだ。私は肩で息をしながら言う。
「だって、はあ、ともちゃんが、はあ、外国に、はあ、アルゼンチン」
私が言い終わらないうちに彼女が「大丈夫?」と心配そうな目で私を見る。
「とっても疲れてるみたいだし、まあ、あがりなよ。片付いてるよ、何もないというのが正しい」彼女は笑う。
彼女の部屋に入ると、部屋を作り上げていたものたちは消えてしまっていた。勉強机も、読みかけの雑誌も、衝動買いしたプラモデルも、旅行先のきれいな景色を撮った写真の入った額縁も、陸上部の大会で優勝したときの賞状とトロフィーも。あるのは、大きめのベッドと低いテーブル。
あと、彼女がずっと育ててたひまわりだけだった。もう枯れているのにずっと置きっぱなしだった。天窓から差し込む夕陽が、うつむくひまわりを染めている。私は実感する。彼女は去ってしまうのだ。
「きれいでしょ。部屋、こんなに広かったんだね」
もう一度見渡す。
広かった。ただ広いだけの空間がたたずんでいた。
散らかってたのが懐かしいねと彼女。そうだね、と応えたかったのだけれど、声が震えてうまく言えず、歯の間から空気が漏れる。
「何か言った?」
「なに、も」
「座ってて。お茶入れてくるから」
彼女はどたどたと階段をおりる。私はひまわりと向かい合って座る。夕陽が眩しい。今年の夏に彼女について買いに行ったサボテン。服を買いに出かけたショッピングモールで、私がトイレから帰ってくると彼女が何かをぶら下げていた。
聞くと、ひまわり! と彼女は威勢の声で言いのけた。「部屋で育てるんだ。冬を越える強いひまわりにする」
そんなことできないだろうと思っていたら、案の定無理だった。夏はぐんぐん育って、ピークを過ぎると種を落として眠りにつく。この前きたときにすでに枯れていたから、「元気なひまわりですね」と茶化してやると、「復活するから」と彼女が真顔で言ったのを覚えている。息が整って、少し落ち着く。
「なかなか復活しなくて困ってるんだよ」
後ろから声がして、振り返るとお茶とお菓子をお盆に乗せた彼女がいた。
「もう無理でしょ」
「何をおっしゃる。まだ一週間あるのに」
「一週間? これ、向こうに持って行かないの?」
こんなに運びにくいもの、持って行くわけないか。
「うん。かといって処分するのもいやだし、どうしようかな」テーブルに盆を置いて座る。私も体ごと彼女の方を向く。
大事に育ててたからね。でも処分しなよ、枯れてるし。どうしたものかと彼女が唸る。
沈黙とお茶をすする音。少し経って「あっ」と彼女が思いつく。
「何?」
「ちひろにあげるよ、これ」とひまわりを指差す。
私の家の庭に枯れたひまわりが仲間入りすることになった。結構な勢いで断ったけど、彼女の押しに負けて了承してしまった。
「そうと決まればちひろの家にゴー!」と彼女が父親に頼んで、そのひまわりと私を家まで届けてもらった。
別れはすごくあっさりしたものだった。
「準備が忙しいから、もう学校に行けないかも」「そう」「もっと悲しんでよ」「出発の日、見送りに行くよ」「ほんとに? ありがとう」
彼女の車が見えなくなるまで見送って、深呼吸した。家の戸を開けて、おかーさーん、ひまわりもらったよー。
**
あれから一ヵ月と少しあと、彼女から手紙が届いた。メールでいいのにと思いながら開くと、細くて整った字の手紙には、海外から母国の友へ手紙を送るのが夢だったと書いてあった。彼女らしい。
最後に、写真をつけましたとも書いてある。封筒をひっくり返すと、写真と、種が一つ机に落ちた。
写真は、とてもきれいなひまわり畑だった。細い一本道の両側にたくさんのひまわり。雲ひとつない空と、太陽。
庭にあるひまわりを、部屋の窓から見る。相変わらず下を向いたままだった。
写真と比べてみると、その違いがはっきり分かる。その写真の右下に、黒いマジックで何か書かれているのに気づく。
『ひまわりの海からひとすくい、冬を越える強い種』
エスカレーターにモノ申す
エスカレーター、あれはよくない。
地域によって右寄りだの左寄りだのルールが決まっていてややこしい。
さらにこのことばは政治的な意味を含んでいるようにもとれる。「大阪は右寄りなんだって」などと言えば、まるで大阪が街を上げて右翼なのかのように聞こえてしまう。
これはよくない。
そもそも地域によって立つ位置が違うというのはいったいどういうことなんだ。
同じ国同じ人間が乗るものを同じ乗り方をしないでどうする?もし車が、「東日本は左側通行だけど西日本は右側通行」だったら日本はめちゃくちゃになってしまうぞ。今日本がめちゃくちゃになっていないのは、日本人の良心がなせる業であると言ってよいだろう。ニッポン、バンザイ!
エスカレーターに乗っているとこんなアナウンスが流れる。「歩くと危ない」
本来は街を歩いているだけでも危ないのだ。人間たちはそれを無視してアホな顔してやれ通勤だやれ通学だなどと鉄の機械に身を任せている。
そのアナウンスを流すならもっと繁華街で流すべきだ。歩くと人にぶつかったり赤信号を無視して死んでしまったりして危ないので、歩かないでくださいって。
でも街で歩かなかったらどうなるんだ。
歩くのは人のサガだ。だから歩くと危ないから停止しろなんて言うのは人であることをやめろといっているのと同じだ。
だから、みなはもっと歩くべきだ。他に歩いている生き物を見たことがあるか?俺はない。
他の動物は阿呆だから、歩くことを知らず、体力を無駄に消費して走り回っているのだ。食欲と生存欲求という本能に縛られ、舌をぶらりと垂れ、次の瞬間もこの平穏な時が続くと思っている。
そんなわけがないだろう。お前は走っているのだぞ。いつ死ぬかわからない。
移動は死だ。
死ぬものはみな移動する。
いや、移動できなくなった者から死んでいくのかもしれない。寝たきりのババアがそうだ。俺も歳をとったが、まだ元気に畑仕事をしているのだから、そこらのババアと同じにしないでほしい。
移動と死が密接につながっていることに気が付いたのは俺が初めてなのではないだろうか。
少し考えればわかることだが、移動すれば疲れる。疲れるということは、エネルギーを消費しているということだ。エネルギーを消費するということは、命を擦っているということだ。
移動は死に近づく手段であると言える。
君たちは死がこわくないのだろうか。
日本全国1億ン千万人が毎日移動し、移動しつつ死んでいる。
これは比喩ではなく本当に移動の最中に死ぬ人間もいるから恐ろしいものだ。
ところで俺は今肺がものすごく痛いのだが、これも移動の代償に違いない。
俺は移動以外に健康に悪いことは何もしてこなかったのだから。酒もタバコもクスリも一切手を出さなかった。
それなのに肺がこんなに痛いのは、ひとえに俺が移動を続けてきたからに違いない。
それもまあ仕方のないことなのだ。俺は愛する者のために移動してきた。家族、友人、職場の人間、コツコツ移動してきた。時には夜通し移動することもあったが、今となってもいい思い出だ。
畑仕事が飽きたら移動でもしようか。
遠いところに移動して、適当な店に移動しよう。
もうずいぶんと呼吸が苦しくなってきたけれど、幸いまだ足は元気で、視界も良好だ。
俺はまだ移動ができる。
最後ぐらい、みんなと移動してもいいだろう。さあ、とおくへいこう。