2022年最初の投稿
ここ1,2年でかなり衰えを感じるようになった。
なにかしたわけでもないのに体がだるかったり、なんとなく頭がぼーっとしたり、肩や目が基本的に凝っている。
人生100年で考えたらまだまだ折り返してもいないような年齢なのに、元気な日の割合がどんどん下がっていっている気がする。
もしかしたら本当は人間が生きていいのって50歳ぐらいまでで、あとは特に意味がないとかあるんじゃないか?
若いときには「何を当たり前のことを」と聞き流していたようなセリフが、今になって心に沁みる瞬間がある。
若ければ、雨の中出かけられるし、きつい日差しの中グラウンドでサッカーができる。部活帰りにロッテリアで終電まで話すことだってできるし、飲み会のあと朝までカラオケだって行ける。朝まで飲んだあとそのまま働けるし、二日酔いなんて知らない。
普通に暮らしていれば体重は増えないし、何の前触れもなく体調を崩すこともない。
フィリピンの現地の人が乗るようなジプニーに当たり前に乗れる。
元気があれば何でもできる。
今は、元気がないと温泉にも行けないし、飲み会の前にはヘパリーゼが必須だし、サッカーどころかスポッチャで筋肉痛だ。
普通に暮らしてて勝手に太るし。
履歴書も書けないし、住所変更もできないし、メールやラインの返信もできないし、片付けもできないし、保険の支払いもできないし。
でも生きていける。元気がなくて何にもできない日も過ぎ去っていく。
まるで、遠く離れた銀河のどこかに俺と全く同じ人間がいて、その人間と俺は同じふるまいをするようになっていて、この俺たちを観測する存在が、俺たちを観測している限り日々が続いていくみたいだ。
これを量子のもつれというらしい。
人と比べるなは無理
人生に、
・全部がうまくいくとき
・何もうまくいかないとき
・どっちでもない時
があるとして、その比率が大体
1 : 4 : 5
ぐらいな気がする。
これはうまくいってる時に考えると違う比率になっているかもしれないです。
でも人生って大体、どっちでもない時が半分だなって思います。
顔がいいやつとか金を持ってるやつは、この何もうまくいかない時や、
どっちでもない時を無理やり「うまくいっている時」に持っていく力があって、
それゆえの自己肯定感の高さから、また何かをうまくできるようになる、
みたいな良いサイクルが回ってる、はず。
これは悪口だし偏見なんですが、
胸焼けしそうな甘ったるい文、自己意識を全面に押し出した洒落臭い文、
こういうのをかける人間はもれなく誰かしらから全肯定されて生きています。
でも逆もそうなんじゃないかなと思ってて、
自己肯定感が異常に低い人間も、
いろんなことを「うまくいってない」に読み替える力がある。
ここは悪口じゃないことを前提に読んでほしいんですが、
「自分に自信がない」ということをいろんな言い方で言える、
説明できる、
インターネットで発表できるぐらいの度胸があるのは、
中々の自己理解をしていないと無理なんじゃないかと、僕は感じています。
これを読んでくれているあなたがどうかは分かりませんが、
もし自信のなさをある程度説明してきたのなら、
自分のことをわかっているという自信は持ってもいいんじゃないでしょうか。
世の中には自分のことを説明できない人が多分いっぱいいるのですごいことだと思います。
僕みたいな中途半端な人間は、
自分にできることが何となくわかっているけど、それをもっとうまくできる人がいるのも知っていて、
でもそのまま負けるのも癪だから後にも引きにくいが、
前にも進みにくい(負けに直面したくないから)という硬直状態になってしまいます。
これも一種の自己理解なのかもしれませんね。
皆さんはどれに当てはまりますか。
まあみんながどれに当てはまるとかはどうでもいいんですが、
最近世の中にはいろんな人がいるということをみんながわかってきて、
炎上したり称賛されたりしていると思います。
名前がついたコンプレックスを持っている人がいて、
このコンプレックスを発表し、方々からの共感や同意を獲得するのを見かけます。
それ自体は良いことなのでどんどん発表してほしいんですが、
問題は受け止める方で、
いろんな繊細さを全部肯定してしまうと、絶対どこかで矛盾してしまう気がします。
肯定している人たちに悪気はないけれど、
かつて「男が働き女が家にいる」という価値観を肯定していた人たちも悪気はなかったはずです。
新しくて心地良さそうな価値観やコミュニティに無邪気に飛びついたり、「とにかく肯定する」態度は、何とはいえないけど何かしらの問題を抱えていそうな気がしています。
すみません、考えてみればあなたたちが矛盾しているかどうかも別にどうでも良いですね。
僕が取れるスタンスは
「どっちでもない」みたいな、
ただそれをあるものとして見るだけというものかもしれないです。
何が言いたいかっていうと、
「人と比べるな」は無理ってことです。
人から書かされる文章アレルギー
人から書かされる文章はクソ
はてなブログ、マークダウンで書けるんかい。
起承転結が特になくても書いてもいいのが、自分だけで書いている文章のいいところだ。
人に書かされた文章には、見出しから考えろとか読者を想定しろとか、挙句の果てには本当に思っていることを書いていないなど、ちぐはぐな指摘が夏場の琵琶湖の羽虫ぐらいあって、完成した頃にはインターネットに転がっている幾千のしょうもないそれと遜色がない記事になっている。
時々、僕のブログをすごく褒めてくれる人がいて、 そういう人がいるとよし書こうとなるんだけど、 僕のブログを好きな人がずっと僕と交友関係にあることはほとんどなく、 その人に読んでもらいたくて書いた記事は誰にも読まれない手紙になる。
それでも気が向いたときにこうやって投稿するのは、 誰に向けたいわけでもないがすべての人間に聞いてほしい何かがあるからだと思う。
2年前ぐらいに函館で食べたホッケ
全部を知っているわけではない
人は年齢を重ねるといろんなことを知っていくが、同じぐらい知らないことも増えていく。
知らないことのどこかに大きな希望があるとしたら、知っていることだけを考えて絶望したり(大人はすぐに絶望する)、劣っていると考えたり、何者でもないと悩むのはもはや傲慢ですらある。
そう考えるとこんな風に説教臭い文章を書くのは、自分だけが全部を知っているようで偉そうかもしれない。まあ僕は全部を知っているので書いてもいいのですが……。
ここまで読んだみんなの感想
- しゃらくさい事を言うな
- こんなことみんな知っている
- 誰かが言っていることの焼き直しだろ
- おもんね
- 二度とブログを投稿するな
架空の感想を書くことでメタっぽい何かができると思ったけど全然でした。
ここまでが本文であとは蛇足です。
最近の話
在宅勤務が始まって1年弱が過ぎたけれど、とにかく自律神経が壊れてしまって、真っ昼間に突然眠くなってしまう。
陽の光をちゃんと浴びて通勤してたときには道中で目が覚めてたけど、今はベッドからデスクの5歩で仕事ができるんだから、わざわざ外に出る理由がない。夜中にapexをして日が昇る頃に寝て、始業時間ギリギリに起きて、しょうもないMTGをして、出口が見えない仕事量から逃避したくてまたapexを起動する。
僕の会社の僕以外のみんなは大変なのにちゃんと全部こなしていて、すごいと思う。
圧倒的に成功体験を積んできた人間と、基本的に失敗や逃避でできてきた人間では、元々の考え方が違うということがこの1年ぐらいでよくわかった。
あと、誰も人の話なんて聞いていないということもわかった。
将来の話
いろいろネガティブなことを書いてるけど、僕は僕自身がそんなに不幸だとは思っておらず、むしろ運の良さだけでここまでやれていると思う。
周りにいい人を集めるのだけは上手らしく、俺が生きやすいように世の中が成り立っている錯覚をする。
今僕を無視している人たちもいずれ僕が大成すれば旧知の友のようにハイタッチを求めてくるんだろうけど、そのころには僕はもう僕を無視している人たちにあんまり興味がない。
30までに自分が一番勝てる分野を見つけて一山築いたら、40歳ぐらいで一軒家を建てて、キッチンに鉄板焼き屋ぐらいでかい鉄板を置きたい。
わをん
ここまで読んだ物好きには、何かいいことがあるといいなと思います。
最近ハマってるのは地元に戻って一人暮らしする想像をしながら物件を探すことです。 東京で払っている家賃で倍ぐらい広い部屋に住めるので本気で引っ越したいぐらいです。
何かご不明点がございましたらお気軽にご連絡ください。 今後ともよろしくお願いいたします。